マスカラ

 遺品整理に現れた老人から追い出され、私は歌舞伎町まで歩いた。

「家族はいない」涼介は、そう言っていた。「義理の息子でね」老人はそう言った。
 どちらかがウソをついていたのだろうけれど、私は部屋に居続けてはいけないそうだ。ならば、もうどうでも良い。

 いかにも億劫そうに涼介の荷物を片付けている老人の背中をしばらく眺め、私は頭を下げ、部屋を後にした。形見でも欲しがれば良かったのだろうか。

 外に出るのは二年ぶりだったけれど、午後七時の歌舞伎町は相変わらず午後七時の歌舞伎町であり、私はゴジラのビルを何度か周回し、結局はごく目立たぬ植え込みを選んで腰を下ろした。

 涼介から禁じられていたお酒、薦められていた薬、どちらを口にしようか。

 きらびやかな電飾、緩やかにから回りする雑踏の構図に、ロープを首に巻いた涼介はぶら下がっておらず、過去だ。お金もなく、眠くもない。朽ちかけた涼介の腐臭がまだ粘膜にあった。

「……これから?」
 声をたどると、似たような女が私を見下ろしていた。
「これからなの? あなたに、そう聞いたのよ」

 声量を少し上げ、女は胸元の刺繍を示した。外国語は読めないけれど、たぶん排泄技師一級と書いてある。文字の下に小さな星が二つ。誇らしげでさえあったが、そのセーターも、女も、生産の過程で汚れたようには見えなかった。

「ええ、これからです」(さようなら)女がそれ以上にじり寄ってこないように、私は答えた。言霊は二秒だけ効力を発揮し、三秒後に女はまた私との距離を縮め始めた。

「分かりました。では、煙草かお酒を下さい」と、私は言った。
「ちょっと待って。それは私のセリフなのよ」
女は廃墟に似た眼球を見せてくれた。決裂を示すために私は女へ背を向け、ビルの壁に額と両膝をつけなければならなかった。

「…………よね」聞き取れはしなかったが、女は私の背中について何かしらの見解を述べたのだろう。それはおそらく、壁の温度のように正しいものであるように思えた。

 喧騒の指揮者は、舞台の袖で蝶ネクタイを直している。町には予兆だけがあった。包まれ、目を閉じる。リハビリテーション。チューニング。同調。融解。

 やがて微かな衣擦れが聞こえ、「上げる」、その言葉を最後に女は黙ってしまった。降下し、霧を浴び、感知できない光を思う。時が行く。

 さあ、踊ろう。また第一小節から、無様な円舞曲を。同じ温度を手に入れた額と両脚を壁から引き剥がし、振り返ると、そこにはまだ女がしゃがみこんでいた。伏せた顔から、ひと筋のよだれが糸を曳いている。

 脱いだセーターをまるで供物のように捧げ持ち、上裸の女は祈るように息絶えていた。

 賞杯か、バトン。受領した私は抜け殻から離れ、集まり始めた野次馬の人垣をすり抜け、句点を打つために、二度、回れ右を繰り返さなければならなかった。


listen again